俺が小学4年生の時、仲の良い友達が3人いた。スポーツ万能で勉強も良くできる折笠(おりかさ)くん、ちょっとやんちゃな小滝(こたき)くん、地味な俺、そしてちょっと動作の鈍い小池くんだ。
小池くんはいつもニコニコしていて、身体をくねらせながら、僕ら3人の後を子犬のように付いてきた。
小池くんの口癖は「おやび〜ん」である。「おやび〜ん」とは親分の崩した言い方で、当時流行っていた漫画のセリフかなんかだったと思う。僕ら3人、特に勉強の良くできた折笠くんに向かって小池くんはいつも「おやび〜ん」と呼んでいた。
小池くんの書いたノートを見せてもらったことがある。漢字はあまり書けておらず、ひらがなもノートのマス目からはみ出しすような大きな字で、とても小学4年生が書いた字には見えなかった。それでも、ところどころに消しゴムの跡があったのは、小池くんなりにきれいな字を書こうとしていたのだと思う。
僕ら4人は休み時間になると校庭に飛び出して、よく相撲を取っていた。校庭の隅に丸い円を足で描き、それを土俵にして相撲を取るのである。
折笠山だとか宮越海だとかの四股名を付けて、子供なりにわりと真剣に相撲を取っていた。
そんなある日、折笠くんが本当の相撲の本場所のように4人で15日間取り組みをして、星取表を作りたいと言った。
当時の力量は、上から、折笠くん、小滝くん、俺、小池くん の順番であった。
体格は皆同じであったが、折笠くんは柔道を習っていたので、足腰が強かったのである。
でも、そんな各々の力量のようなものは、どうでも良かった。なんか、楽しいことが始まりそうだな、というような気持ちを皆が持ち、僕ら3人はその申し出にワクワクしながら賛成したのである。
星取表は折笠くんが用意した。ノートに定規で丁寧に線を引き、立派な星取表ができあがった。
そのまっさらな星取表を4人で囲み、あーだこーだと、皆の成績を予想をし合いながら、大声で笑い合った。
相撲が弱い小池くんも、はち切れるような笑顔で、その輪に中に収まっていた。
そして、次の日から、校庭の片隅で15日間の「高根台小学校 冬場所」が始まったのである。
15日間の結果は、15戦全勝折笠くん、10勝5敗小滝くん、5勝10敗俺、15戦全敗小池くんであった。
なんのことは無い、実力通り、折笠くんが全員に勝ち、小滝くんは折笠くん以外には全員に勝ち、俺は小池くんにだけ勝ち、小池くんは誰にも勝てなかったのである。
星取表は見事なまでに規則正しい○と×の印が付いた。僕ら4人は改めてそれを見て、教室の片隅でいつまでも笑い転げていた。
小池くんは勉強もスポーツも苦手な子供であった。もしかしたらそのせいで、イジメのようなものを受けていたかも知れない。
でも、僕ら3人は、その事で彼をいじめるようなことは決してなかった。いつもニコニコと笑っている小池くんを何故いじめることができるのか。僕ら3人は小池くんのことが本当に好きだった。そして、小池くんも、特別扱いはせず、普通の友達として自然に接していた僕らのことを、好きだったと思うのだ。
5年生になると、僕と小池くんは別々のクラスになった。仲の良かった僕ら4人もいつしか縁遠くなり、接する機会も無くなっていた頃だった。
放課後、小池くんのクラスの連中が、団地の横の芝生の上で草野球に興じているのを、俺はなんとなく見ていたのである。
小池くんがバッターになり、一球もバットに当たらないまま三振すると、連中から辛辣なヤジが飛んだ。
いつものように、小池くんはそのヤジにニコニコと笑い、申し訳なさそうに謝っていた。
しかし、その後もクラスの数人が小池くんを取り囲み、面と向かって悪態をつき、中には笑いながら小突くような奴も出てきたのである。
俺は何もできないまま、遠くからその様子を黙って見ていた。4年生の時は仲のよい友達だったが、今はもう他人なのである。
小突かれてもニコニコと笑っていた小池くんだった。だが、誰かが何かの引き金を引いたようで、小池くんはいきなり豹変したのである。笑顔が怒顔に変わり、眼が血走ると、何か言葉にならないようなものを発して、彼は小突いていた奴に猛然と向かっていった。小突いていた奴は、小池くんのあまりの豹変振りに驚いたようで、そこから逃げようとした。それを小池くんは血走った眼で追いかけていくのである。その一部始終を見ていた俺は、何故か、小池くんに同情する気は起こらなかった。
一年前には決して見ることのなかった小池くんの豹変振りに、俺はただただ驚いていたのである。
俺が小池くんを見たのは、その時が最後だった。俺の小学校からほとんどの子供が進む地元の公立中学校に小池くんの姿は無かった。もしかしたら小池くんは自分の能力に見合った学校に行ったのかもしれない。それは知る由もなかったのである。
俺は何故だか分らぬが、今でも時々小池くんのことを思い出すことがある。ちょっと頭の弱かった小池くん。いつもニコニコして僕らの後をついてきた小池くん。覚えられない漢字を一生懸命覚えようとしていた小池くん。みんなのように綺麗な字が書きたかった小池くん。苦手な計算を両手を使って頑張ろうとしていた小池くん。一生懸命走っても足の遅かった小池くん。相撲で全敗しても嫌な顔ひとつせずいっしょに笑いあった小池くん。僕らは小池くんのことが本当に好きだったのだ。
小池くんのはち切れるようなあの笑顔を俺は一生忘れない。
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